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2012年02月

看板用イラスト

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これは実は昨年仕事で依頼を受けたものです。
車の修理・販売所の周囲を囲む看板に
こういった車の絵を入れたいとのことで看板屋さんから頼まれました。
すべてSUZUKIの車ですが、『ちょろQ』のような形に変形したイラストになっています。

かわいくないですか?。
wagon-r
swift
jimny
carry

ゆずり葉

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0220
母の49日をまじかにして日々少しずつ気持が落ち着いてきた頃です。
室内で育てていたアオキに似た常緑植物の、
一番下についていた大きな葉が徐々に黄色くなり、
ある日ハラリと落ちました。
私はなんとなしそれが母に通じるものを感じて、愛おしくて捨てることが出来ませんでした。
うまくは言えませんが、
黄色くなってきた時、これはもうダメだなと取ろうとしたのですが
しっかり茎についたままで取れませんでした。
徐々に徐々にその葉だけが黄色くなって、
若葉が出た頃すっときれいにひとりでに落ちていました。
昔、小学生の頃だったでしょうか、「ゆずり葉」の話を読んだ覚えがあります。

母は穏やかで優しく慈愛に満ちた人でした。
農家の働き手として、そして気性の激しい姑に仕え、
父は長男でしたので、嫁に来たときは小姑がたくさん。
叔父は兄嫁である母を母親のように思っていたと肩を落としました。
私のおじいさんおばあさんは最後自宅介護で、
つらく当たった母を子供のように「母ちゃん」と呼び、
何年もの間、最後まで母が手厚くつくしました。
その母はそれから孫やひ孫のおばあちゃんの期間が長かったのですが、
どの子も同じように世話をし、みんなの無事をお仏壇のご先祖さまにお祈りするのを日課とし、
ずっと家族のことだけを考えてきた人です。
母にはもっと色々、もっともっと孝行したかったですが、
母は自分のこととなると「人のお世話になること」をとても嫌がっていました。
実家の跡継ぎ長男(孫)の結婚式があった昨年6月以降は
たぶん自分の身じまいを考えていたのでしょう。
日頃から整理整頓が上手できちんとしていましたが、
事ある毎にお別れの挨拶のようなことを言いました。
私はそれに気づかないふりをしてしまいました。
ですが、その度に何も親孝行が出来なかった分、感謝の気持は言葉で伝えました。
母は特段表情も変わりませんでしたが、
今となればそれだけでも言っておいて良かったと思います。
この4ヶ月間ずっと母のことを考えました。
私の原体験にはいつも母がいます。
私は赤ん坊の時、母のおっぱいを飲んでいた時の記憶があります。
そして生まれてから初めて知った悲しみとして深く胸に残っているのは
近所の子に「お母さんとは一緒に死ねない。お母さんは自分より先に死ぬんだ。」と聞いた時のことです。
その時は、「ならばその時は自分もナイフでお腹をさせばいい。」とむりやり解決して、
それからそのことは「考えないことの戸棚」にしまって鍵をかけました。
その鍵がパンとはじけて飛んで4歳か5歳ころの私と、
50を過ぎた私が一緒になってしまった感じでした。

さて、そしてこの葉っぱですが、押し葉にするのもなんだしと絵に描こうと思いました。
描いておいて良かった、直後ノブユキがいたずらして粉々にしちゃいました。
「いいよーだ。もうしっかり胸の中にしまっちゃったからねー。」

<F2スケッチブック>

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